ひどくなる一方の乱行
母の死の事実を知った燕山君は、あまりの怒りと悲しみで一晩中泣き続けた。その涙をぬぐった彼が一番最初にしたことは、母を復位させることだった。それは父である成宗の決定を否定する行為であり、宮中では反対する声が多くあがった。しかし、燕山君は耳をかさなかった。
それだけではなく、母の死に関わった者、傍観した者、母の復位に反対する者の官職を剥奪し、片っ端から首をはねた。この命令は死者も例外ではなく、墓をあばき生者と同じことをした。
以後も、王の乱行がますますひどくなった。
1506年、国を憂えた重臣たちが反乱を起こし、燕山君は王位を奪われた。代わって、燕山君の異母弟が後継者となった。それが11代王の中宗(チュンジョン)である。
王位を追われた燕山君は、島流しとなった。
その2カ月後に、燕山君は急死した。病没と伝えられているが、あまりに早すぎる死は様々な憶測を生んだ。
燕山君はあまりに多くの怨みを買っており、復讐によって毒殺された、と考えても不思議ではない。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
朝鮮王朝実録が記した燕山君(ヨンサングン)の追放と中宗(チュンジョン)の即位!