粛宗(スクチョン)が即位してから20年が経った1694年3月29日のことだった。当時の有力派閥だった西人派に所属する官吏の金寅(キム・イン)や他の数名が告発書を朝廷に提出した。その内容の一部に粛宗が驚愕した。なんと、「張希載が淑嬪・崔氏を毒殺しようとした」と書かれてあったのだ。
宮中が大騒ぎになった
張希載(チャン・ヒジェ)は張禧嬪(チャン・ヒビン)の兄である。それだけに、張希載の黒幕が張禧嬪であることは間違いなかった。
このとき、張禧嬪は王妃であり、淑嬪・崔氏(スクピン・チェシ)は粛宗の側室である。特に、淑嬪・崔氏は人気時代劇『トンイ』の主人公になっていた女性だ。
王妃が側室の毒殺に関わっていたという噂が流れ、宮中が大騒ぎになった。
粛宗はこの一件を通して、張禧嬪を支援する南人派の勢力があまりに強くなりすぎたことを実感した。このままでは王権を脅かされる危険性を察知し、毒殺説を利用して南人派を一掃する腹を固めた。
それは電撃的な発表だった。粛宗は覚書を出して南人派の高官たちを次々に追放したのである。
その総仕上げとして行なったのが仁顕(イニョン)王后の復位だった。自分で強引に廃妃にしておいて、5年後に再び元に戻すというわけだ。いかに王とはいえ、自分勝手なふるまいであることは明白だった。
ただ、仁顕王后の復位自体は多くの臣下たちに歓迎された。それほど彼女には人望があった。
それまでに廃妃になった王妃は何人もいたが、再び王宮に戻ってこられたのは仁顕王后が初めてである。まさに人徳の賜物だが、その一方で、人徳のない張禧嬪は王妃の座を明け渡さなければならなくなった。
張禧嬪の降格にともなって、兄の張希載は済州島に流罪となった。
「張希載と張禧嬪にはもっと厳しい処罰を!」
そんな声が高官たちの間から相次いだ。
しかし、粛宗にはその意思がなかった。何よりも、張禧嬪との間に生まれた王子が世子(セジャ/王の後継者)になっていたからだ。
世子の生母と伯父を極刑に処するわけにはいかない。少なくとも、その時点では粛宗もそう考えていたのだが……。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
張禧嬪(チャン・ヒビン)が粛宗(スクチョン)の心を奪った日々!