1623年、光海君(クァンヘグン)はクーデター軍につかまって廃位となった。クーデターを指揮した王族は光海君に代わって新しい王に即位した。それが16代王の仁祖(インジョ)であった。彼が起こしたクーデターには正当性があったのだろうか。
荒廃した国土の復興
クーデター軍が光海君を王宮から追放する際に「光海君の罪状」として指摘したのが、次の4項目です。
1.兄弟たちを殺した
2.多くの土木工事を行なって民衆の負担を大きくした
3.中国大陸の明に対して背信行為をして、後金と密通した
4.継母である仁穆(インモク)王后を幽閉した
それでは、具体的に検証してみましょう。
王位継承をめぐって親族を殺したのは、光海君が最初ではありません。3代王・太宗(テジョン)と7代王・世祖(セジョ)も王位争いの渦中で兄弟を何人も殺害しています。それでも、太宗と世祖はなんら罪を問われませんでした。
次に土木工事が多いという件ですが、朝鮮半島は豊臣軍との戦いで国土が荒廃しており、その復興をなしとげる必要がありました。当時は王ですら、満足に住む王宮がなかったほどです。光海君が王宮の再建を急いだのも、王の権威を失墜させないために仕方がなかったのです。
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