最高の名君と称された4代王・世宗(セジョン)の二男の首陽大君は、幼い11歳の甥だった端宗(タンジョン)の即位を不満に思っていた。王の後見人である重臣の金宗瑞(キム・ジョンソ)らが執政の主導権を握っていたからだ。首陽大君は「弱体化した王権を奪い返す」という大義を掲げ、決起の秘密会議を開いたのだが……。
世宗の心配事
朝鮮王朝では“王の後継者は長男”が原則。しかし建国初期は、それが破られ、王の座を巡る王族たちの争いが絶えなかった。
世宗(セジョン)は、父の太宗(テジョン)が骨肉の争いで王位に就き、自身も三男の身で王になったことを気にかけていた。そのため、1421年に長男が7歳になると早めに世子(セジャ)に指名した。
世宗に似て聡明だった世子は、29年間、世宗の下で政治を学び、温厚な人柄で多くの人の信頼を集めた。しかし、からだが弱く、不安を感じた世宗は、早く後継者を作るよう催促した。自分と世子が亡くなると、王権が混乱すると考えたからだ。
実際、世子の弟の首陽大君(スヤンデグン)が、病弱な兄に代わり、王になろうと野心を燃やしていた。
1441年、世子は顕徳(ヒョンドク)王后との間に待望の男子を授かった。世宗はその孫を世孫(セソン=世子の次の王位継承者)に指名した。(ページ2に続く)
端宗(タンジョン)から王位を奪った世祖(セジョ)!朝鮮王朝全史5
甥の端宗(タンジョン)から王位を奪った世祖(セジョ)の悲劇とは?