ユネスコの「世界の記憶」に登録された「朝鮮通信使に関する記録」。このことで、日韓でも朝鮮通信使に対する関心が高まるだろう。その朝鮮通信使の足跡を訪ねるなら、広島県福山市の「鞆(とも)の浦」がお勧めだ。
歴史の証言を保管する場所
江戸時代に12回来日した朝鮮通信使の構成は、当時としては破格だった。正使、副使、従事官を高位とする一行は400人から500人の規模を誇り、外交使節の他に儒者、作家、書家、画家、医者なども同行して文化交流に力を注いだ。
また、国書の交換が行なわれるのが通例であり、徳川幕府は国賓として最高の格式で朝鮮通信使を迎えた。
日本国内での接待と警護はすべて沿海・沿道の各藩が担当し、その饗応のために莫大な経費を必要とした。各藩は相当頭を悩ませたが、面目を保つために相応の出費もやむをえなかった。
それでも、華やかで壮麗な使節団を迎える地元の人たちは大喜びだった。朝鮮通信使は各地で熱狂的に迎えられ、宿舎を訪ねて朝鮮王朝の知識人たちと談論風発をする人が非常に多かった。
たとえ言葉は通じなくても、筆談によって意思の疎通をはかることができた。そういう意味でも、両国の相互理解に果たした役割は非常に大きかったといえる。
今でも日本の各地に朝鮮通信使の足跡が残っているが、その中でも鞆の浦の福禅寺は特に重要である。なぜなら、一行がここから見た瀬戸内海の景観を愛し、様々な書を残しているからだ。
その文面から、当時の朝鮮通信使の人たちの心情を察することができる。まさに歴史の証言を保管する場所だといえるだろう。(ページ2に続く)
イ・ヨン(孝明世子〔ヒョミョンセジャ〕)はどんな人だったのか?
孝明世子(ヒョミョンセジャ/名はイ・ヨン)はどれほど優秀だったのか?
イ・ヨン/孝明世子(ヒョミョンセジャ)はどのように亡くなったのか