朝鮮王朝の歴史において、これほど評価が両極端に分かれる人物も珍しい。第15代王の光海君(クァンヘグン)である。彼は冷酷非情な独裁者だったのか。それとも、優れた手腕を持つ指導者だったのか。その生涯は、まさに波乱万丈という言葉がふさわしい。
光海君は1575年、第14代王・宣祖(ソンジョ)の二男としてこの世に生を受けた。彼の運命が大きく動き出したのは、1592年のことである。豊臣秀吉の軍勢が朝鮮半島に大規模な侵攻を開始したのだ。いわゆる壬辰倭乱(文禄・慶長の役)である。国家の存亡が危ぶまれる未曾有の危機であった。この時、首都である漢陽(ハニャン)はパニックに陥り、父の宣祖は都を捨てて北へ逃亡してしまう。
しかし、若き光海君は違った。彼は最前線に残り、義兵を募って軍の士気を高めた。自ら戦場を駆け回り、めざましい武勲を立てたのである。民衆は彼を救国の英雄として熱狂的に支持した。一方で、実の兄である臨海君(イメグン)の運命は悲惨だった。加藤清正の軍勢に捕らえられ、敵の捕虜になるという屈辱を味わったのだ。国難を前にして、兄弟の明暗はくっきりと分かれた。勇敢に戦った弟は称えられ、無力だった兄は厳しく批判されたのである。
血塗られた後継者争い
臨海君はもともと気性が激しく、粗暴な振る舞いが目立っていた。そのため、次期国王の座を巡る争いにおいて、光海君は有利な立場に立つ。実績が優れていると評価された彼は、ついに次期王位継承者である世子(セジャ)に任命された。これで王座への道は確固たるものになったかと思われた。
だが、宮廷の権力闘争はそれほど単純ではなかった。臨海君を支持する勢力が、虎視眈々と反撃の機会を狙っていたのだ。さらに事態を複雑にしたのが、新たな王子の誕生である。1606年、宣祖の正室である仁穆(インモク)王后が男児を出産した。永昌大君(ヨンチャンデグン)である。
当時の朝鮮王朝は、身分制度が非常に厳格であった。実は、臨海君も光海君も、国王の側室から生まれた庶子にすぎない。一方の永昌大君は、正室から生まれた待望の嫡男である。血筋の正統性を何よりも重んじる官僚たちは、こぞって本流である永昌大君を支持し始めた。宮廷は二つの派閥に割れ、骨肉の争いが激しさを増していった。
1608年、病に倒れた宣祖がこの世を去る。彼は死の直前、「光海君に王位を継がせる」という遺言を残していた。しかし、永昌大君を擁立しようとする一派は、なんとこの重要な遺言を隠蔽してしまったのだ。国家の最高権力を巡る陰謀が渦巻いていた。それでも、現実の壁は高かった。永昌大君はまだ2歳の幼児である。言葉も満足に話せない赤ん坊に、戦後の混乱した国家を統治できるはずがない。権力を握ろうとした仁穆王后もついに現実を受け入れ、光海君の即位を認めざるを得なかった。
有能な為政者と冷酷な粛清
こうして光海君は、激しい争いを経て第15代国王として即位した。だが、王位の重圧はつねに彼の心を蝕んでいく。正統性の弱さを自覚していた彼は、暗殺や謀反の恐怖を抱えていた。自身の王座を守るため、彼は兄弟たちに対して容赦のない手段に打って出る。
1609年、光海君はまず最大の政敵であった兄の臨海君を粛清した。さらに1614年には、まだ幼い永昌大君をも無残に殺害してしまう。それだけではない。永昌大君の母である仁穆王后を離宮に幽閉し、大妃としての身分や特権をすべて奪い取った。王権を脅かす芽を徹底的に摘み取ったのである。しかし、このような残酷な処置は、多くの人々の心に深く取り返しのつかない怨恨を植え付ける結果となった。
その一方で、為政者としての光海君は極めて優秀であった。彼は豊臣軍の侵攻によって焦土と化した国土の復興に全精力を傾けた。破壊された農地を蘇らせ、税制を改革して民衆の生活を立て直した。さらに、焼失した王宮を壮麗に再建し、国家の威信を取り戻すことにも成功している。
外交面でも卓越したバランス感覚を発揮した。北方の満州では、新たな軍事大国である後金(後の清)が台頭していた。一方、旧来の同盟国である明は衰退の一途をたどっていた。光海君は両国との間で巧妙な中立外交を展開した。無謀な戦争に巻き込まれるのを防ぎ、朝鮮王朝の平和と安全を巧みに維持したのである。
暗闇の夜襲と孤独な晩年
内政や外交で確かな実績を残しながらも、彼の運命は突然終わりを告げる。血塗られた粛清への反発が確実に臨界点に達していたのだ。光海君に深い恨みを抱く勢力が、密かにクーデターの計画を進めていた。
運命の日は、1623年3月12日の未明に訪れた。夜の静寂を破り、反乱軍が王宮を襲った。全くの不意打ちであった。油断していた光海君の政権はあっけなく崩壊する。命からがら王宮を脱出した光海君だったが、逃亡は長くは続かず、すぐに反乱軍に捕縛されてしまった。
クーデターを成功させた首謀者が即位して、第16代王の仁祖(インジョ)となった。
仁祖は、光海君を処刑することはなかった。かつて国王であったという事実を重んじ、最低限の名誉として命だけは保証したのである。光海君は王の身分を剥奪されて流刑地へと送られた。
最終的に彼が流されたのは、都から最も遠く離れた絶海の孤島、済州島(チェジュド)であった。王としての栄華から一転し、そこでの生活は孤独で不自由なものであったに違いない。しかし、彼は深い失意の中でも、驚くほどの生命力を保ち続けた。彼が静かに息を引き取ったのは、1641年のことである。享年66。華やかな王宮から力ずくで追放されてから、実に18年もの長い歳月が流れていた。
文・写真=康 熙奉(カン ヒボン)


