1592年、大陸制覇の野望を抱いた豊臣秀吉が諸大名を動員して朝鮮半島に攻め入ったとき、朝鮮王朝は創設200年を迎えていました。この200年は外敵の侵攻がほとんどなく、穏やかな期間でした。逆に言えば、国防がおろそかになっていました。そんな中で、李舜臣(イ・スンシン)だけは軍人らしく危機感を持っていました。
卓越した司令官
李舜臣は出世が遅れ、水軍の専門家でもありませんでした。たまたまの人事で水軍を任されたのです。
それでも李舜臣は、亀甲船を仕上げて実戦で使えるように砲術の精度向上に取り組みます。運命というべきでしょうか、ようやく実戦で使えると確信した次の日に豊臣軍が釜山(プサン)に上陸します。まさに、ぎりぎりのタイミングで間に合ったわけです。
怒涛のように攻めてくる豊臣軍。絶対的に不利だった朝鮮王朝が状況を転換できたのは、明の援軍や各地で蜂起した民兵のおかげですが、一番大きかったのは水軍が制海権を握って豊臣軍の補給を断ったことでした。それを可能にしたのが李舜臣でした。
彼は、潮の流れを的確につかみ、相手を海上で囲い込んで攻め落とす戦略に長けていました。海上戦は、陸上戦以上に指揮官の力量がモノを言います。李舜臣はその点でも実に卓越した司令官でした。
これほどの人なのに、豊臣軍と密通しているという嫌疑をかけられて失脚してしまいます。朝鮮王朝における党争の弊害といえるでしょう。
確かに、李舜臣は14代王・宣祖(ソンジョ)の命令に従わないところもありましたが、そこには彼なりに指揮官としての矜持がありました。
自分が正しいと思ったことは、たとえ王の命令にそむいても実行したいという意志が強かったのです。
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庶民から尊敬されなかった国王・宣祖(ソンジョ)/朝鮮王朝人物列伝特選19