19代王・粛宗(スクチョン)が張禧嬪に出会ったのは1680年だった、と言われている。張禧嬪は通訳官の親戚というコネで王宮に入ってきた女官である。絶世の美女だったことは間違いないので、艶福家の粛宗は一目で気に入った。
後継ぎを熱望した粛宗
王が女官を気に入って一晩共にすることを承恩(スンウン)と言う。張禧嬪も承恩を受けた。
しかし、すぐに側室になれるわけではない。側室というのは、王妃候補だった女性から選ばれる場合が多いのである。
つまり、王妃選抜の過程で洩れた女性が側室になるというわけだ。よほど家柄がよくないと側室にはなれない。
張禧嬪が正式に側室の品階を得たのは1686年頃なので、粛宗と出会ってから6年くらいかかっている。もし、張禧嬪が粛宗の息子を早く産んでいればすぐ側室になれたのだろうが……。
当時の粛宗には娘が何人もいたが、息子はいなかった。粛宗は大変焦りを感じていた。
「朝鮮王朝実録」を読むと、「後継ぎがいないので夜も眠れないくらい心配だ」と粛宗が語る場面が出てくる。
粛宗の最初の正室は仁敬(インギョン)王后だが、1680年に亡くなっている。その翌年、二番目の正室として王宮に入ったのが仁顕(イニョン)王后である。
仁顕王后は病弱だったこともあり、粛宗との間には子供はできていない。それで、なおさら粛宗の心配が募ったのだ。
当初、仁顕王后は張禧嬪のことを「主上(チュサン/王のこと)にあれだけ寵愛されている女性だから」ということで、ひいき目に見ていた。しかし、粛宗が完全に張禧嬪に惚れ込んで仁顕王后のもとに通わなくなってきてからは、かなり厳しい対応を取るようになった。
「朝鮮王朝実録」には、仁顕王后が張禧嬪のふくらはぎを鞭で叩いたという記述もあった。それくらいに張禧嬪を警戒したのである。
そんな張禧嬪は1688年10月に、粛宗が待望した息子を産んだ。それが、後に20代王になる景宗(キョンジョン)だ。
生まれてから2カ月半後に、粛宗は、長男を「元子(ウォンジャ)」にしたいと言った。本来、王の正式な後継者は「世子(セジャ)」なのだが、多くは5歳くらいのときに指名される。それ以前に、世子になる筆頭候補が元子なのである。
粛宗は、「生まれたばかりの長男を元子にしたい」と宣言するが、高官たちから「それはなりません。仁顕王后はまだ若くて子供を生む可能性があるのに、なぜ、側室が産んだ王子をいきなり元子にするのですか」と大反対された。
もし仁顕王后に息子ができた場合、正室が産んだ嫡男が世子になれないという事態になってしまう。高官が反対するのは当然のことだった。
ところが粛宗は、「余が決めたことだから」と強引に押し切ってしまう。さらに、1689年4月、粛宗は突然高官を集めて、「仁顕王后はあまりにも嫉妬が強すぎる」と露骨に非難してしまう。
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