奇皇后は、高麗出身で中国大陸の元の皇后にまで上りつめた女性だが、彼女については謎が多い。奇皇后はいったいどのような人生を歩んだのだろうか。
皇帝の寵愛を受けた奇皇后
高麗は、朝鮮半島を統一していた時代に、元から何度も貢女(コンニョ/若い女性を献上する制度)を要求されていた。貢女として元に渡った女性は、家族に会うこともできずに寂しく過ごさなければならなかった。そんな中で、異彩を放っていたのが奇皇后である。彼女は、高麗の下級官職である奇子敖(キ・ジャオ)の娘として生まれた。
奇皇后が貢女として元に渡ったのは1333年で、とても美しかった彼女は、高麗出身の官僚である高龍普(コ・ヨンボ)に見出されて、皇室付きの女性として推薦された。その結果、奇皇后は12代皇帝のトゴン・テムルに気に入られて側室となった。
しかし、トゴン・テムルの正室だったタナシルリが、皇帝の寵愛を受けている奇皇后に嫉妬していた。彼女は、元を支えていた重鎮エル・テムルの娘で、そうした家柄から皇后の地位に就いていた。しかし、父親のエル・テムルが皇帝になる前のトゴン・テムルを追放したり、9代皇帝のコシラを暗殺した可能性があった。そうした事情によって、トゴン・テムルの寵愛を受けることができなかったタナシルリは、寵愛を受けていた奇皇后を鞭で叩いたり、焼きごてを押し当てるなどの嫌がらせをした。その後、タナシルリは、兄が起こしたクーデターに加担したことで宮殿を追い出されている。
皇后の座が空席になったので、トゴン・テムルは奇皇后を皇后にしようとするが、多くの臣下に反対された。
それを無視することができなかった彼は、名門部族出身のバヤン・フトゥクを皇后にした。
1338年、奇皇后は息子のアユルシリダラを産んだ。新たに皇后となったバヤン・フトゥクは控えめな性格だったため、奇皇后に対するトゴン・テムルの愛は顕著になっていった。(ページ2に続く)