純祖の代理で行なった政治
朝鮮王朝では、「孝行」を最高の徳目とする儒教を国教にしていたため、祖母に当たる貞純王后を処罰するのは難しかったのである。
貞純王后は、それからしばらくは目立った行動を控えていたが、1800年6月に正祖が体調を崩して床に伏せると再び行動を開始した。
そして、1800年6月28日に正祖は世を去るが、その原因については貞純王后に毒殺されたのではないかと言われている。
なぜなら、貞純王后は正祖の看病をするために高官たちをすべて部屋から出してしまっているし、正祖が亡くなって一番得するのは貞純王后だからである。
正祖の後を継いで、彼の息子が10歳で23代王・純祖(スンジョ)となった。まだ幼かった純祖の代理として政治を行なったのが貞純王后である。
彼女は、王族の最長老という立場を利用して正祖が重用していた高官たちを罷免にしたり、進められていた政治的な改革を次々とつぶしていった。さらに、カトリック教の弾圧まで行なっている。
それほど横暴を働いた貞純王后は、1805年に60歳で世を去った。
文=康 大地(コウ ダイチ)
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