自尊心を守り抜く生き方
敬恵王女は、恥をさらしてまで生きたくなかった。本来なら、夫のあとを追って自決したかったが、それができない事情があった。すでに敬恵王女のお腹の中では次の生命が宿っていたのである。
それだけに、敬恵王女はなんとしてもお腹の子供を守らなければならなかった。彼女は奴婢として使役を課されそうになったが、そんなときに敢然と言い放った。
「私は王の娘である」
たとえ最下層の身分になっても、精神の気高さは失っていないという意思表示だった。どこまでも自尊心を守り抜くことが敬恵王女の生き方だった。そして、やがて彼女は娘を産んだ。
一方、貞熹王后に預けた敬恵王女の息子はどうなったであろうか。
この息子を貞熹王后は王宮で、女の子の服を着せて育てた。そこまで用心しても、最後まで隠し通せるものではなかった。いつしか、世祖の知るところとなった。観念した貞熹王后は、本当のことを世祖に話した。
意外にも、世祖はその子を膝に抱いて可愛がった。子供に罪はない、という思いが強かったのだろう。長く丈夫に育ってほしいという願いを込めて、世祖は自らその子に眉寿(ミス)という名を付けた。
そればかりか、世祖は敬恵王女の身分を回復して王宮のそばにりっぱな屋敷まで用意した。まさに破格の待遇だが、それを敬恵王女はきっぱりと拒絶して尼になってしまった。ただ、ずっと仏の道につかえる気持ちはなかった。(ページ3に続く)