敬恵王女が生んだ子は男だった。彼女の元を訪ねた内官は、世祖(セジョ)が「男なら殺せ」と命じたこと、貞熹(チョンヒ)王后が「男なら私のもとに連れてきて」と言ったことを伝えた。熟慮した末に、敬恵王女は生まれた子を貞熹王后のもとに預けた。それが、我が子にとって最良の道だと信じたのだ。
極刑となった夫
本当は、自分の手でずっと育てたかったが、世祖に知られれば我が子は殺されてしまう宿命である。それならば、貞熹王后の言葉を信じてみようと思った。敬恵王女にとっては本当につらい決断だった。
さらなる悲劇が待っていた。外部との接触を禁じられていた鄭悰が、世祖に対抗する勢力と接触していたことが発覚した。
世祖は鄭悰を生かす気持ちがまったくなくなり、彼を陵遲處斬(ヌンチチョチャム)の刑に処した。これは、頭、胴体、手、足を切断する極刑である。敬恵王女は一番むごたらしい形で愛する夫を失った。
同時に、処罰は敬恵王女にも及んだ。陵遲處斬の刑を受けた男の妻は奴婢になる決まりだったのだ。
かくして、かつて王女だった女性がついに奴婢まで身を落としてしまった。(ページ2に続く)