元敬王后を襲った悲劇
王となった太宗は、朝鮮王朝を存続させるために外戚の力を弱めようと考えていた。その標的となったのは、王妃である元敬王后の実家である。
太宗は、大出世を果たしていた元敬王后の兄弟たちに脅威を感じていた。その結果、元敬王后の2人の兄と2人の弟は処刑され、実家は没落してしまった。
そのような悲劇を受けて立ち直れないほど落ち込んだ元敬王后は、夫を激しく憎んだ。
太宗の側近たちは、元敬王后を廃妃にするように主張した。しかし、太宗は妻を廃妃にはしなかった。理由は、息子を4人も産んだことと王になる過程で自分を支えてくれたことを高く評価していたからだ。
元敬王后の息子は、長男の譲寧(ヤンニョン)大君、二男の孝寧(ヒョニョン)大君、三男の忠寧(チュンニョン)大君、四男の誠寧(ソンニョン)大君である。
悲劇に見舞われた元敬王后にとって、唯一の救いは三男の忠寧が1418年に4代王・世宗(セジョン)として即したことだろう。そのことを大変喜んだ彼女だが、2年後の1420年に55歳で世を去った。
文=康 大地(コウ ダイチ)
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