1735年に生まれたイ・ソン。彼は世子(セジャ)として甘やかされて育ったのだが、10歳のときに早くも政治の表舞台に出て老論派の政治手法を厳しく批判した。老論派といえば当時の主流派閥。イ・ソンは大きな敵を作ってしまった。
イ・ソンの素行
21代王の英祖(ヨンジョ)の王命によって息子のイ・ソンが政治の一部を仕切るようになったのは14歳のときだった。このとき、陰でイ・ソンを邪魔したのが老論派の重臣たちである。
こうした批判勢力はイ・ソンの悪評を英祖の耳に入れた。
確かに、イ・ソンは素行が良くなかった。頭脳は天才的なのだが、10代で酒に溺れ、側近にも暴力をふるった。
それを利用して、老論派はイ・ソンの行状をさらに歪めて報告し、英祖が息子に不信感を持つように仕組んだ。
英祖はイ・ソンを呼んで叱責した。それがまた父子の確執を生んでしまった。
ただ、イ・ソン自身も反省していなかったわけではない。
彼は世子としての自分の立場を十分に自覚し、1757年、22歳のときに反省文を提出した。
反省文の内容は次のようなものだった。
「私は不肖の息子であり、がさつで誠実さが足りません。本来なら子として道理をわきまえなくてはならないのに、行き違いがあまりに多かったようです。それは誰の過ちでしょうか? もちろん、不肖の息子の過ちです。今やようやく、自分の至らなさに気がつきました。心から後悔している次第です。今後は、自らを叱りつけて、過ちを正し、気質を変えていこうと思います。もし、このことを実行できずに過去と同じであったならば、それは私の過ちがさらにひどくなるだけです。王朝のすべての臣下たちよ、私の意思をそのまま受け取り、正しい道に導いてください。それが私の願いです」
この反省文は英祖のもとに届けられた。
それを読んだ英祖は、次のような感想をもらした。
「とてもいい。まるで地上に昇ってきた太陽を見るような思いだ。早く世に知らせ、過ちを明らかにしないで、改心したことを公にせよ」
息子の改心を喜ぶ父の英祖。イ・ソンもホッとしたことだろう。
しかし、英祖が喜びに浸っていたのはほんの一瞬だった。
猜疑心が強い性格だった英祖は、時間が経過すると、一転してイ・ソンの反省文に心がこもっていないと思い始めた。
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英祖(ヨンジョ)は思悼世子(サドセジャ)を米びつに閉じ込めるとき何を語ったか
英祖(ヨンジョ)とイ・ソン(思悼世子〔サドセジャ〕)の悲劇!
英祖(ヨンジョ)と思悼世子(サドセジャ)〔第1回/老論派の陰謀〕