あまりにひどい外交
まず、クーデターを成功させた身内から反逆者が出て国内が大混乱に陥ったし、その後には後金を「野蛮な国」だと卑下していたずらに刺激してしまった。
怒った後金は、二度に渡って大軍で攻めてきて、結果的に仁祖は土下座するような形で謝罪せざるを得なかった。
それは、1637年1月のことだった。
代償はあまりにも大きかった。
仁祖の3人の息子は人質として清に連れていかれ、さらに数十万人の民衆が捕虜として連行されてしまった。そんな事態を招いたのも、仁祖の外交があまりにもひどかったからである。
民衆の税金を軽減させようとした光海君。
失政によって民衆を苦難に陥れた仁祖。
統治能力がどちらがまさっているかは明らかである。
文=「歴史カン・ヒボン」編集部
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