『七日の王妃』の端敬王后はなぜ七日で廃妃になった?

 

『七日の王妃』の主人公になっている端敬(タンギョン)王后は、わずか七日間だけ王妃になっていて、その後に廃妃(ペビ)となっている。なぜ、彼女は国王から離縁されなければならなかったのだろうか。




燕山君の異母弟

10代王の燕山君(ヨンサングン)は最悪の暴君だった。
王宮の中で酒池肉林に明け暮れ、官僚を大虐殺し、庶民には重税を課した。
多くの人が燕山君を怨み、ついに高官たちがクーデターを起こした。
彼を守ろうという部下は誰もいない。クーデター軍が王宮にやってくると、護衛兵はみんな逃げてしまった。
中には、あまりにあわてて逃げて便所に落ちた人までいた、と「朝鮮王朝実録」に書いてある。
ただし、いくらひどい王でも追放するとなると大義名分が必要になる。そこでクーデター軍がかつぎあげたのが、燕山君の異母弟の晋城大君(チンソンデグン)だ。彼も燕山君から相当にいじめられていた。
晋城大君の協力をとりつけようとしてクーデター軍が彼の屋敷に行ったところ、本人は「兄がついに私を殺しにきた」と早とちりして自決しようとした。妻が必死に止めた結果、何とか事なきを得た。




それでも、晋城大君はクーデターに反対した。
「兄を追放して王になるのは嫌だ」
そう言って晋城大君は同調することを拒否した。
高官たちにしてみれば、晋城大君の承諾を得られないと、クーデターの成功はない。彼らは必死に説得し、最後にようやく晋城大君は王になる決定をした。
こうして彼は11代王・中宗(チュンジョン)として即位した。
同時に、彼の妻は端敬(タンギョン)王后になった。
一方、王宮を追われた燕山君は島流しとなり、わずか2カ月で絶命してしまう。あまりにあっけない死。果たして何があったのか。
一応は病死と伝えられているが……。
中宗は、周囲にかつがれて王になったので、クーデターを成功させた高官たちに頭があがらなかった。
いわば、自立性がない王だった。すると、高官たちは中宗に対して「王妃を離縁してほしい」と迫った。




理由は、端敬王后が燕山君の妻の姪であり、父親も燕山君の側近だったからだ。その父親はクーデターが起きたときに真っ先に殺されている。
もし、端敬王后が恨みを持って新しい政権に反旗をひるがえしたら……。
そのことを高官たちは恐れて、中宗に王妃との離縁を要求したのだ。
(ページ2に続く)

中宗(チュンジョン)はなぜ端敬(タンギョン)王后を守れなかったのか

中宗(チュンジョン)が離縁した端敬(タンギョン)王后の悲しき人生!

『七日の王妃』歴史解説!燕山君(ヨンサングン)と中宗(チュンジョン)と端敬(タンギョン)王后の運命

朝鮮王朝の中宗(チュンジョン)はどんな国王だったのか

中宗(チュンジョン)はなぜ文定(ムンジョン)王后の悪行を止めなかった?

固定ページ:

1

2

関連記事

ピックアップ記事

必読!「悪女たちの朝鮮王朝」

本サイトには、「悪女」というジャンルの中に「悪女たちの朝鮮王朝」というコーナーがあります。ここでは、朝鮮王朝の歴史の中で政治的に暗躍した女性たちを取り上げています。
朝鮮王朝は儒教を国教にしていた関係で、社会的に男尊女卑の風潮が強かったのです。身分的には苦しい境遇に置かれた女性たちですが、その中から、自らの才覚で成り上がっていった人もいます。彼女たちは、肩書社会に生きる男性を尻目に奔放に生きていきましたが、根っからの悪女もいれば、悪女に仕向けられた女性もいました。
「悪女たちの朝鮮王朝」のコーナーでは、そんな彼女たちの物語を展開しています。

もっと韓国時代劇が面白くなる!

韓国時代劇によく登場する人物といえば、朝鮮王朝の国王であった中宗、光海君、仁祖、粛宗、英祖、正祖を中心にして、王妃、側室、王子、王女、女官などです。本サイトでは、ドラマに登場する人物をよく取り上げています。

ページ上部へ戻る