朝鮮王朝の歴史を見てみると、将来は国王になれたのに兄弟に殺されてしまった王子が5人もいた。それは果たして誰なのか。やはり、国王の座をめぐる「骨肉の争い」が背景にあるのだ。
弟2人を殺した兄
最初に取り上げるのは李芳碵(イ・バンソク)だ。
朝鮮王朝を建国した初代王・太祖(テジョ)の八男である。
幼いときから聡明で、1392年にわずか10歳で世子(セジャ)に指名された。
将来の国王の座を約束されたのだ。
しかし、1398年に「第1次王子の乱」が起きて異母兄の芳遠(バンウォン/後の3代王・太宗〔テジョン〕)に殺されてしまった。
まさに、悲劇の王子であった。
次は、安平大君(アンピョンデグン)である。
史上最高の名君と称された4代王・世宗(セジョン)の三男だ。
書道の名人として今でも韓国で尊敬を集めている。
しかし、その人生は哀れだった。
兄の首陽大君(スヤンデグン)が甥の端宗(タンジョン)から王位を奪う過程で、端宗を守ろうとしたのが安平大君だった。そのために、兄と激しく対立した。
その結果、首陽大君が権力を掌握したあとに安平大君は自決させられてしまった。
さらに、安平大君の弟の錦城大君(クムソンデグン)も悲劇の王子だ。
世宗(セジョン)の六男である。
兄の首陽大君が甥の端宗を退位させて世祖(セジョ)として即位すると、端宗を復位させる計画を練って行動に移そうとしたのが錦城大君だった。
しかし、失敗して処刑されてしまった。
つまり、首陽大君は実の弟2人を殺したのであった。
(ページ2に続く)
思悼世子(サドセジャ)が餓死した後で妻の恵慶宮(ヘギョングン)はどうなった?
イ・ヨン/孝明世子(ヒョミョンセジャ)はどのように亡くなったのか