海上の王
張保皐は清海鎮を築き、日夜、海上防衛に尽力した。その甲斐があって、新羅の民が奴隷にされることはなくなった。
この功績によって、張保皐は興徳王から厚い信頼を得た。その威光を利用しながら、張保皐は本格的に海上貿易を始めた。清海鎮を拠点にして、日本と唐との貿易量を飛躍的に増やしたのだ。いつしか「海上の王」と呼ばれるほどになった。
836年、興徳王が後継ぎがいないまま亡くなった。宮廷内では、熾烈な跡目争いが始まった。ともに王族の一員であった金均貞(キム・ギュンジョン)と金悌隆(キム・ジェリュン)が激しく競った。
金均貞と金悌隆は叔父と甥の関係にあった。結局は金均貞が死んで金悌隆が勝ち、43代王の僖康王(ヒガンワン)となった。
負けた側の金均貞の息子だった金祐徴(キム・ウジン)は、連座制によって自分にも大罪が及ぶのを避けて都から逃げた。彼が頼ったのは、兵力も財力もある張保皐だった。張保皐は、落ちのびてきた金祐徴を温かく迎えた。
838年、興徳王の甥であった金明(キム・ミョン)が反乱を起こし、王宮を襲撃した。僖康王は、護衛の者がことごとく命を失い自害せざるをえなかった。代わって金明が即位して44代王の閔哀王(ミンエワン)となった。
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