政治家としての光海君
宣祖は嫡男の誕生を大いに喜んだが、2年後に死期が迫ってしまった。
永昌大君はまだ2歳だった。
言葉も満足で話せないようでは、国王になるのは無理だ。宣祖としても光海君を世継ぎに指名せざるをえなかった。
1608年、光海君は15代王として即位した。彼を支持する一派は、王位の安泰のために血の粛清に乗り出した。臨海君を配流したうえで自決させ、永昌大君も殺して母の仁穆王后を幽閉した。
こうして光海君の王位は磐石になったと思われたが、結果は逆だった。血の粛清の過程で光海君は多くの政敵をつくることになってしまった。
しかし、政治家としての光海君は、戦乱で荒廃した国土の復興に尽くし、外交を巧みに行ない、民生の安定に力を注いだ。
ただ、光海君の臣下たちは宮中でやりたい放題に振る舞い始め、収賄も平然と行われた。政治の腐敗によって辛い思いを強いられたのは庶民であり、彼らの恨みは光海君に向けられていった。
こうなると、兄弟たちを殺害した悪行が蒸し返され、光海君を王から引きずりおろそうとする動きが活発になった。
(ページ3に続く)
光海君(クァンヘグン)の妻の柳氏(ユシ)は不名誉な廃妃(ペビ)となった!
仁穆(インモク)王后は仁祖(インジョ)に光海君(クァンヘグン)の斬首を主張!