息子の死を悲しむ国王
イ・ソンと一緒につるんでいた宦官(かんがん/去勢された官僚)や尼僧が処刑された。他にも、イ・ソンと遊興した5人の妓生(キセン/宴席で歌や踊りを披露する女性)が殺された。
イ・ソンを米びつに閉じ込めてから6日目、英祖はイ・ソンを補佐していた側近のほとんどを罷免した。
このとき、イ・ソンの生死はどのようになっていたのか。
食料も水も与えられず狭い空間に閉じ込められたままだった。
8日目に米びつをあけてみたら、すでにイ・ソンは絶命していた。
世子なのに、いつ亡くなったのかもわからなかった。
実際に息子を失ってから、英祖は急に後悔し始めた。
しかし、後の祭だった。
英祖は息子の死を悲しみ、諡(おくりな/死後に贈る尊称)として「思悼世子(サドセジャ)」を贈った。そこには、「世子を思い、その死を悼(いた)む」という思いが込められていた。
そこまで悼むなら、もっと早く米びつをあけてあげれば良かったのだが……。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
英祖(ヨンジョ)と思悼世子(サドセジャ)〔第1回/老論派の陰謀〕