「洪景来の乱」
反乱が起きても安東・金氏は反省せず、どんなに有能な人材だろうとも、自分たちの意にそぐわない人間には、満足な官職を与えなかった。
こうした反乱の最たるものが洪景来(ホン・ギョンネ)が首謀者となった「洪景来の乱」である。これは1811年に起こり、5カ月で政府軍に鎮圧された。
しかし、「洪景来の乱」の以後も朝廷では相変わらず勢道政治が続き、これに不満を持った人たちが全国各地で大小の反乱を次々と起こした。反乱の首謀者たちの中には自らを洪景来だと名乗り「洪景来は生きている」と称した。
多くの反乱が結果として敗北したが、力のない庶民層も集団で立ち上がれば政府を動かせると証明した。これは同時に、朝鮮王朝の権威の失墜を意味していた。
そんな状況を純祖は心苦しく思っていた。しかし、彼は実権のほとんどを安東・金氏に握られていて、蚊帳の外に追いやられているようなものだった。実際、純祖にできることは少なかった。
純祖は34年間王位に就いていたが、幼い頃は後見人に実権を握られ、成人してからは勢道政治に振り回された。
彼は1834年に44歳でこの世を去った。名君・正祖の息子ではあったが、その統治は父の名声に比べるべくもなかった。
文=慎 虎俊(シン ホジュン)
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