王朝を揺るがせた悪政
処罰を免れたとはいえ、徐々に政治基盤を整えた正祖がいつ強硬策に転じるかもわからない。貞純王后は正祖が意気盛んなときは鳴りを潜めて、目立たないように嵐が過ぎるのを待った。
再び出番がめぐってきたのは1800年6月だった。このとき、正祖は病床にあって、明日をも知らない命だった。そんなときに貞純王后は急に現れて、あたふたしている正祖の側近たちを叱りつけた。
「この病状は先王(英祖)のときと似ておる。先王は病状が回復したので、そのときの煎じ薬を調べて、ふさわしい薬をさしあげるようにせよ」
その後も何度も侍医や高官たちを叱りとばした貞純王后。それまでずっと目立たぬように生活していたのに、正祖の重病を境に立場をガラリと変えた。
正祖は高熱と腫れ物に苦しめられた末に、1800年6月28日に息を引き取った。途端に、貞純王后による毒殺説が宮中に流布した。根拠は、正祖が世を去ったときに一番の利益を得るのが彼女だったからだ。
その事実は、時間を経るたびに顕著になった。
正祖の後を継いだのは息子の23代王・純祖(スンジョ)だが、彼はまだ10歳で政治を仕切るのが無理だった。こういうときは、王族の最長老の女性が摂政を行なうが、その役割を担ったのが貞純王后だった。
貞純王后が政治の表舞台に出てきて何が起こったか。
正祖が重用した高官たちは罷免させられ、進めていた政治的な改革は次々とつぶされた。一番最悪だったのは、天主教(カトリック教)に対する弾圧だ。理由は二つあった。天主教が序列主義の儒教的価値観を否定する宗教であることと、貞純王后に敵対する勢力に天主教徒が多いということ。つまり、政敵を排除するという個人的な事情も理由になっていた。
こんなことがまかりとおってしまったのが、朝鮮王朝の悲劇だった。
悪の手先「鄭蘭貞(チョン・ナンジョン)」!悪女たちの朝鮮王朝1
文=康 熙奉(カン ヒボン)
出典=『歴史を作るのは男より女! 悪女たちの朝鮮王朝』(双葉社発行)
『歴史を作るのは男より女! 悪女たちの朝鮮王朝』(双葉社発行)