趙氏(チョシ)の正確な誕生年は、歴史の記録に残されていない。彼女は1629年、仁祖(インジョ)の正室に付き従う女官として王宮の門をくぐったと推測されている。当時の正室とは、仁祖の最初の妻である仁烈(インニョル)王后であった。
趙氏の身分は決して高くはない。むしろ、極めて底辺に近い層に属していた。なぜなら、彼女は正妻の子ではない庶子だったからである。それでも、趙氏には他者を圧倒するほどの際立った美貌があった。その類まれなる美しさこそが、不遇な運命を大きく反転させる最大の武器となったのである。
時代は激動の渦中にあった。1637年1月、朝鮮王朝は押し寄せる清の大軍の前に為す術もなく大敗を喫した。
敗戦の代償はあまりにも重かった。仁祖の3人の息子は、容赦なく人質として清国へ連行されてしまった。さらに悪いことに、長年連れ添った正妻の仁烈王后もすでにこの世を去っていた。敗北感と喪失感に苛まれ、仁祖は広大な王宮の中で耐えがたい孤独に震える日々を送っていたのである。
その傷ついた王の心に巧みに入り込み、見事に慰めてみせたのが趙氏であった。彼女は国王が最も弱り切った絶望の淵に寄り添い、その手腕で絶対的な寵愛を勝ち取った。単なる一介の女官から国王の側室へと、彼女は劇的な出世街道を駆け上っていったのである。
権力の掌握
やがて、趙氏は仁祖の血を引く娘を出産した。それが孝明(ヒョミョン)である。
仁祖はこの王女を異常なほどに溺愛した。それには深い理由がある。仁祖は亡き仁烈王后との間に6人の子宝に恵まれていたが、そのすべてが男児であった。彼にとって、自らの腕に愛らしい娘を抱くのは、人生で初めての経験だったのである。
初めて得た娘への愛情は、そのまま生母である趙氏への権力集中をもたらした。しかし、王室の掟は厳格である。正妻を亡くした国王は、必ず新たな正室を迎えなければならない。趙氏がどれほど愛されようと、庶子という低い身分である以上、国母たる王妃の座に就くことは絶対に不可能であった。
結局、仁祖は1638年に新たな正妻を迎える。相手はわずか14歳の荘烈(チャンニョル)王后であった。このとき、仁祖はすでに43歳という年齢に達していた。
【歴史人物紹介:荘烈王后】
10代半ばの若さで一国の王妃として輿入れした女性。しかし、夫の心は完全に側室に奪われており、宮中では見向きもされないという過酷な運命を強いられた悲哀の国母である。
側室の暴走
仁祖が若い妻に一切の関心を示さず、ひたすらに趙氏のみを愛し続けたため、宮中の秩序は完全に崩壊した。これにより、趙氏の態度は目にあまるほど増長していく。
彼女はもともと、目的のためなら手段を選ばない冷酷な悪女の気質を持っていた。趙氏は、自分より遥かに若く立場の弱い荘烈王后を、陰で激しい言葉で罵倒し続けた。当然、その暴言の数々は王妃自身の耳にも届いていた。荘烈王后の心は深く傷つき、宮廷の奥深くでただ一人、悲しみの涙を流し続けるしかなかった。
本来であれば、正室のほうが側室よりも圧倒的に上位の存在である。しかし、趙氏は正室を凌駕する強大な権力を手中に収め、その横暴さは日に日にエスカレートしていった。
彼女の権力基盤をさらに盤石にしたのは、次々と誕生した国王の子供たちである。彼女が王室にもたらした子女は以下の通りである。
- 孝明(ヒョミョン)王女の誕生
- 1639年:王子の崇善君(スンソングン)を出産
- 1641年:王子の楽善君(ナクソングン)を出産
希代の悪女へと変貌
ひたすら冷遇される荘烈王后には、子供ができなかった。王に愛されない以上、それは避けられない結末であった。朝鮮王朝の長い歴史を紐解いても、荘烈王后ほど側室以下の惨めな扱いを受けた王妃は存在しないだろう。
すべては、仁祖が一人の側室を異常なまでに甘やかし、寵愛しすぎたことが原因である。王室の寵愛を一身に集めた彼女の称号も、次々と格上げされていった。昭容(ソヨン/側室に与えられる正三品の品階)の地位にあるときは「昭容・趙氏」と呼ばれ、さらに上位に昇格してからは貴人(キイン/側室に与えられる従一品の品階)の地位を得て、「貴人・趙氏」と畏怖を込めて称された。
〔まとめ〕
庶子として生まれた趙氏は、類まれなる美貌を武器に王宮へ入り、失意に沈む仁祖の心を掌握した。王女や2人の王子を立て続けに産んで絶対的な寵愛を勝ち取った彼女は、正妻である若き荘烈王后を虐げて、実権をほしいままに得て、希代の悪女へと変貌を遂げたのである。
写真撮影=ハン・スンウン
文=康 熙奉(カン ヒボン)





