高い人気を誇る時代劇『トンイ』。その主人公には実在のモデルが存在する。それは第19代国王・粛宗(スクチョン)の側室であった淑嬪・崔氏(スクピン・チェシ)である。
劇中において、彼女は張禧嬪(チャン・ヒビン)と激しく対立する。しかし、公式の歴史書である『朝鮮王朝実録』を詳細に読み解くと、印象は大きく変わる。当時の記録を客観的に検討すれば、悪女の顔を持っていたのは張禧嬪ではなく、むしろ淑嬪・崔氏の方だったと推測できるのだ。その具体的な根拠を検証していく。
不可解な毒殺未遂騒動
1694年4月、王妃の座に就いていた張禧嬪は、突如として側室へ降格された。引き金となったのは、ある重大な告白である。張禧嬪の実兄である張希載(チャン・ヒジェ)が、淑嬪・崔氏の毒殺を企てたというのだ。このスキャンダルは王宮を激震させた。結果として張希載は済州島(チェジュド)へ流刑となる。そして妹の張禧嬪も地位を奪われた。
これら一連の処罰は、暗殺計画のタレコミのみに基づいている。そこに確たる証拠は存在しなかった。つまり、完全な捏造だった疑いが残るのだ。そもそも、暗殺を実行したところで張禧嬪の陣営にメリットはない。危険を冒す動機が乏しく、そのような陰謀を企てる信憑性は極めて低いと言わざるを得ない。
空白の40日間と呪いの品
1701年8月、正妃である仁顕(イニョン)王后が闘病の末にこの世を去った。事態が動いたのは、その40日後である。淑嬪・崔氏は粛宗に対し、張禧嬪が亡き王妃を呪詛(じゅそ)していたと訴え出たのだ。
ここで不自然なのは、告発までのタイムラグである。事実を把握していたのなら、なぜ直ちに報告しなかったのだろうか。確かに、仁顕王后の住居周辺からは呪術の道具が見つかっている。だが、それが張禧嬪の仕業であると裏付ける物的証拠は1つも存在しない。淑嬪・崔氏による自作自演というシナリオも十分に考えられる。精巧な偽装工作を整えるために、40日という期間が必要だったのではないだろうか。
王位継承をめぐる思惑
当時の後継者候補は2人いた。張禧嬪が産んだ長男と、淑嬪・崔氏が産んだ次男である。張禧嬪の長男は、何もしなくても次期国王になれる立場だった。対して、次男を抱える淑嬪・崔氏は違う。長男を王位継承のレールから引きずり下ろさなければ、我が子に玉座は巡ってこない。
さらに、病魔に冒された仁顕王后の余命がわずかであることは周知の事実だった。張禧嬪があえて呪術に手を染める理由はどこにもない。むしろ、政敵を失脚させたい淑嬪・崔氏にこそ強烈な動機がある。彼女が張禧嬪を罠にはめたと考える方が、はるかに論理的である。
王の血筋にまつわる疑惑
時代は下り、粛宗の崩御に伴って張禧嬪の息子が第20代国王・景宗(キョンジョン)として即位した。しかし、彼の治世はわずか4年で幕を閉じる。代わって即位したのが、淑嬪・崔氏の息子である第21代国王・英祖(ヨンジョ)だ。
ここで奇妙な伝承が残っている。景宗が父・粛宗の面影を強く受け継いでいたのに対し、英祖は容姿が全く似ていなかったというのだ。英祖の即位後には大規模な反乱が勃発している。その際、反乱軍が掲げた旗印は「英祖は先王の実子ではない」という強烈な主張だった。
この疑惑は当時、広く世間に流布していた。もしこれが真実ならば、淑嬪・崔氏は別の男性と密通していたことになる。不義の相手として、彼女を裏で操っていた黒幕・金春沢(キム・チュンテク)の名前まで囁かれているほどだ。
作られた悪女と隠された素顔
結論として、張禧嬪は後世に仕立て上げられた悪役である。正史の記録を辿る限り、彼女が悪事に手を染めた形跡は見当たらない。身分の低い女官から王妃に上り詰めたため、周囲の嫉妬を買い、様々な誹謗中傷を浴びたのが実態だ。
これとは対照的に、淑嬪・崔氏が悪女の烙印を押されたことはない。しかし、当時の政治的背景を推察すると、真の策士は淑嬪・崔氏だったという疑念が確信へと変わる。
ドラマ『トンイ』では、明るくて素直なヒロインとして愛されたトンイ。だが歴史の真実は、モデルとなった淑嬪・崔氏の底知れぬ恐ろしさを物語っている。彼女は宮廷の暗がりで、一体どんな謀略を張り巡らせていたのか。その素顔は、今も深い謎に包まれている。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
画像=MBC
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