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タグ:朝鮮王朝
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イ・バンウォン(李芳遠)は実力で3代王・太宗(テジョン)になった!
李芳遠(イ・バンウォン)は、朝鮮王朝を建国した李成桂(イ・ソンゲ)の五男だった。もともと、李成桂には13人の子供がいたが、そのうち男子は8人だった。最初の夫人は神懿(シンイ)王后。李成桂が出世する前か… -
イ・サン(正祖)が即位直後に一番やりたかったことは?
1776年、24歳で正祖(チョンジョ/ドラマ「イ・サン」の主人公)は王になった。即位後の第一声は「嗚呼!寡人は思悼世子の子なり」という言葉だった。この「寡人(クァイン)」というのは、王が自分のことをい… -
光海君の斬首を執拗に主張した仁穆王后!
1623年3月13日の明け方、綾陽君(ヌンヤングン/後の仁祖〔インジョ〕)に統率されたクーデター軍は、内通者の協力を得て王宮内に入り込み、重要な拠点を次々と占拠した。虚をつかれた光海君は、無駄な抵抗を… -
母の文定王后が明宗を殺したも同然だった!
朝鮮王朝の13代王だった明宗(ミョンジョン)は、中宗(チュンジョン)と文定(ムンジョン)王后の息子として1534年に生まれた。彼は中宗の二男であったが、母の文定王后は我が子を王にするために悪行のかぎり… -
英祖(ヨンジョ)と思悼世子(サドセジャ)の悲惨な親子関係
1701年10月、粛宗(スクチョン)の命令によって、張禧嬪(チャン・ヒビン)は死罪と決まりました。死を覚悟した張禧嬪は「世子に会わせてください」と懇願しました。この世子とは、張禧嬪が1688年に産んだ… -
張禧嬪(チャン・ヒビン)に死罪を命じた粛宗(スクチョン)
1689年、粛宗(スクチョン)は仁顕(イニョン)王后を王宮から追放しました。「仁顕王后が質素な白いチョゴリを着て、わずかなお供を連れて実家に戻る場面」……それは様々な韓国時代劇で描かれてきました。ドラ… -
李舜臣(イ・スンシン)は英雄物語の最高峰!
1592年、大陸制覇の野望を抱いた豊臣秀吉が諸大名を動員して朝鮮半島に攻め入ったとき、朝鮮王朝は創設200年を迎えていました。この200年は外敵の侵攻がほとんどなく、穏やかな期間でした。逆に言えば、国… -
世宗の願いをふみにじった世祖の王位強奪!
518年という長い歴史を誇った朝鮮王朝だが、これほど“長寿”だったのは、厳格な身分制度と絶対的な王権によるところが大きい。こうした体制は初代王の太祖(テジョ)がつくり始め、3代王・太宗(テジョン)の治… -
文定王后が継母だったことが仁宗の悲劇!
朝鮮王朝は儒教を国教にしていたが、儒教の最高の徳目と言われたのが「仁」である。この漢字を諡(おくりな/死後の尊号)につけているのが12代王の仁宗(インジョン)だ。「彼ほど親孝行な王族はいない」と言われ… -
朝鮮王朝の27人の国王の寿命を比較してみよう
朝鮮王朝の国王の平均寿命は約46歳だった。王は最高の栄養を取っていたが、食べすぎと運動不足で病気がちな王が多かったのである。そうした事実を含めて、王たちの長寿と短命をランキングにしてみよう。 …