ドラマ『イ・サン』の主人公は22代王の正祖(チョンジョ)である。彼を取り巻く2人の女性に注目してみよう。1人は母の恵慶宮(ヘギョングン)であり、もう1人は形の上で祖母となる貞純(チョンスン)王后だ。
母は世子嬪
正祖が10歳のときだった。
父の思悼世子(サドセジャ)が英祖(ヨンジョ)によって米びつに閉じ込められて餓死してしまった。
それは1762年のことだ。
そのとき、母の恵慶宮(ヘギョングン)は27歳だった。
彼女は世子嬪(セジャビン/王の後継者の妻)だったが、夫が世を去ったことで世子嬪の資格を失った。
王妃になる道を断たれてしまったわけだが、まだ希望があった。正祖次第では、“王の母”になる可能性が残っていたのである。
その点では王宮内でも立場が強かった。
1762年の時点で英祖の継妃だった貞純(チョンスン)王后は17歳だった。英祖は68歳だったので、年齢差は51歳となる。
現在の常識からは不自然に思えるが、当時の王家としてはありうることだった。実は、英祖が63歳のときに最初の妻が亡くなっていたのだ。王妃が亡くなると王はかならず未婚の女性を継妃として迎えなければならなかった。それゆえ、英祖は65歳のときに14歳だった貞純王后をめとったのである。
恵慶宮が王妃に!
以上の2人の王族女性は、正祖が1776年に即位した以後はどうなっただろうか。
正祖は父の思悼世子を死に追いやった人たちをすぐに粛清した。
憎しみは根深かった。
貞純王后も思悼世子を追い詰めた1人なので、正祖が彼女を処罰しても不思議はないのだが、むしろ丁重に遇した。形のうえでは大王大妃(テワンデビ/王の祖母)だけに、うかつに手を出して酷評されるのを避けたのだ。
しかし、政治的にはそれがマイナスに働いた。わずか7歳しか年上でない祖母は正祖がめざした改革を次々に邪魔したからである。
母の恵慶宮は、息子の即位を心待ちにしていたが、それが実現してみると、期待が落胆に変わった。
思悼世子を死に至らしめた一派として、恵慶宮の実家の人間がことごとく処罰されたのだ。恵慶宮は実家の没落に耐えなければならなかった。
その後、正祖によって思悼世子は壮祖(チャンジョ)に追尊(後から尊号を受けること)され、それにともなって恵慶宮も王妃に列せられた。
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イ・サン(正祖〔チョンジョ〕)が進めた政治改革!朝鮮王朝全史23
イ・サン(正祖)は即位直後に老論派(ノロンパ)を厳しく処罰した