王朝を悪夢に追い込んだ燕山君(ヨンサングン)/朝鮮王朝人物列伝特選5

 

朝鮮王朝時代には全部で27人の王が存在した。その中に最悪の暴君と呼ばれた人物がいる。それが10代王の燕山君(ヨンサングン)だ。彼は王として即位すると様々な暴政を行ない、人々を苦しめた。果たして彼はどんなことをしたのだろうか。




暴君の誕生

燕山君は1476年、朝鮮王朝9代王・成宗(ソンジョン)の長男として生まれたが、彼がまだ幼かったころに母親の斉献(チェホン)王后は成宗の顔を引っ掻いたことが原因で死罪に処されてしまう。それにより、母親の愛を知らずに育った燕山君はとてもわがままな性格になってしまった。
そんな彼にまつわる話を2つ紹介しよう。
1つ目は鹿にまつわる話だ。ある日、子供時代の燕山君は成宗に庭に呼び出された。その際に成宗が可愛がっていた鹿が燕山君に近づいて、手の甲や衣服を舐めたのである。彼はそのことに激怒して鹿を思いっきり蹴とばした。それを見た成宗は「なんてことをするんだ」と自分の息子を叱った。1494年に10代王となった燕山君は、その鹿を殺してしまう。




2つ目は恩師にまつわる話である。燕山君は世子(セジャ/王の正式な後継者)のころに帝王学を学んでいたが、教育係であった側近があまりにも厳しかったようで、ずっとそのことを憎んでいた彼は、その側近も王になった直後に処刑している。
王になった燕山君は、朝鮮王朝の最高学府である成均館(ソンギュングァン)を酒宴場にして、毎日のように酒池肉林を繰り返したり、女と放蕩三昧をするなど王としてあるまじき行為を行なった。
さらに、大きな事件を2つ起こしている。
最初は「戊午士禍(ムオサファ)」である。 燕山君は、道義と名分を重んじる士林派の高官たちを目の敵にしており、何かと口うるさかったため、そんな士林派を容赦なく弾劾した。この事件の呼び名の由来は、1498年の戊午の年に起きたからだ(「士禍」とは、朝鮮王朝時代に派閥党争などが原因で官僚や学者たちが犠牲になった事件を指している)。




次はその6年後の1504年、甲子の年に起こった「甲子士禍(カプチャサファ)」だが、この事件は「戊午士禍」よりも酷い出来事である。
生まれてからずっと母親である斉献王后の愛を知らずに育った燕山君。父親である成宗が口止めをしていたため、周りの者たちも斉献王后のことについて語ろうとはしなかった。しかし、出世欲に目がくらんだ者が母親の追放されたときのことや死罪となったことを燕山君に話してしまう。それを聞いた彼は一晩中泣き続けた。
その後、燕山君は斉献王后の復位を望むが、周りから「罪人を復位させるなどとんでもない」など反対の意見が多くあがった。彼はその意見をすべて無視して、母親の死罪に関わった者たちや母親の復位に反対した者たちを処刑した。さらに、すでに亡くなっている者に関しては、墓を掘り返して首をはねた。




それらの暴政に耐えきれなくなった庶民たちは、「女と酒のことしか考えてない最低な王だ」とか「あんなやつを王とは認めない」など燕山君を批判する文をあちこちに書いたのである。庶民たちのそんな行動を知った燕山君は、「今後、ハングルを使用することは許さん」と言って、庶民がハングルを使うことを禁止してしまった。
(ページ2に続く)

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