痛恨の出来事
◇英祖の二男の思悼世子(サドセジャ)が1735年に生まれた(長男は早世していた)。幼い頃から頭脳明晰で天才的な学力を備えていた。
◇英祖の正室だった貞聖王后が、1757年に65歳で亡くなった。英祖との間に子供はいなかった(思悼世子は側室から生まれていた)。
◇1759年、英祖は二番目の正室として貞純(チョンスン)王后を迎えた。彼女は14歳だった。
65歳だった英祖とは、なんと51歳の年齢差があった。
◇1762年、刀をふりかざして怒りまくった英祖は息子の思悼世子を米びつに閉じ込めて餓死させてしまった。
思悼世子の素行の悪さを周囲から吹聴され、後継者にふさわしくないと判断して厳罰に処したのだ。実際、英祖の頑固でかんしゃくもちの一面が悲劇につながってしまった。
しかし、思悼世子が餓死したあと、英祖は自分の行ないを悔やんだ。
「なぜ、息子が生きている間に許せなかったのか」
それが英祖の生涯の悔恨となった。
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「英祖(ヨンジョ)は粛宗の子供ではない」という告発がなぜ起こった?
英祖(ヨンジョ)は思悼世子(サドセジャ)を米びつに閉じ込めるとき何を語ったか