兄弟愛よりも競争心が強かった
朝鮮王朝の建国初期から、王と臣下たちは常にお互いを牽制し合っていた。王宮に一人孤立している王は、間違えると臣下に振り回される恐れがあった。それをよく知っていた世宗は、王の兄弟たちが力を合わせて王を助け、王室を守ってくれることを望んでいた。世宗が息子たちを重用することによって、彼らは無視できない政治的な力を持つようになったのだ。
特に二男の首陽大君と三男の安平大君(アンピョンデグン)がもっとも頼もしかった。世宗はいつも首陽大君と安平大君に同じ仕事をさせた。天文観測やお経の翻訳、世宗の陵の場所を決めることなど、国家の重要事業を二人が一緒に管理するようにした。世宗の晩年には王命を伝えることも二人がやっていた。王家の中でも重要な位置にいる大君(テグン/正室が産んだ王の息子)たちの一人に一方的に権力が偏ると、後に王権の脅威になると考えた配慮だった。
長く一緒に政治に参加していた二人だったが、兄弟愛よりも競争心が強かった。武人的な資質を持っていた首陽大君に対して、安平大君は詩、書、画に長けた芸術家だった。特に書は中国までその名がとどろき、彼の書がほしいと願う人が多いほどであった。それだけに、安平大君の自負心も兄である首陽大君に負けなかった。
二人の大君の力が大きくなるにつれて、彼らのまわりには人が集まり始め、彼らがライバル的な関係になると、宮廷には首陽大君派と安平大君派ができて、対立するようになった。
そうした大君たちとやりあえる力を持っているのは、国家権力を合法的に握っている大臣たちだった。
端宗が成人するまで国を治めることになった大臣たちにとって、巨大な力を持っている首陽大君の存在は脅威だった。そこで彼ら大臣たちは安平大君を引き入れることにした。以前から大臣たちといい関係を持っていたのも一つの原因だが、それよりも彼は首陽大君に比べて相対的に安心できるというのが大きな理由だった。
これによって安平大君は兄の首陽大君を越えて一気に王族最強の勢いを得た。このように宮廷の力が安平大君に集まってはいたものの、それでも首陽大君と親しくしている者がもっと多かった。力を集めようとした首陽大君の画策が功を奏していたのだ。
こうして、首陽大君派と安平大君派が激化していった。
構成=「歴史カン・ヒボン」編集部
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