敬恵王女の願い
貞熹王后に預けた敬恵王女の息子はどうなったであろうか。
この息子を貞熹王后は王宮で、女の子の服を着せて育てた。そこまで用心しても、最後まで隠し通せるものではなかった。いつしか、世祖の知るところとなった。観念した貞熹王后は、本当のことを世祖に話した。
意外にも、世祖はその子を膝に抱いて可愛がった。子供に罪はない、という思いが強かったのだろう。長く丈夫に育ってほしいという願いを込めて、世祖は自らその子に眉寿(ミス)という名を付けた。
そればかりか、世祖は敬恵王女の身分を回復して王宮のそばにりっぱな屋敷まで用意した。まさに破格の待遇だが、それを敬恵王女はきっぱりと拒絶して尼になってしまった。ただ、ずっと仏の道につかえる気持ちはなかった。
4年目に還俗した敬恵王女は、息子と娘が連座制の罪から解かれることを切に願った。子供たちにはまだ、極刑となった父の罪が及んでいたのである。
世祖はその願いを受け入れた。
その報を聞いて、敬恵王女は喜びの涙を流した。苦難多き彼女の人生の中で、それはようやく訪れた安堵の瞬間だった。
1468年、世祖は51歳で世を去った。その直後に、高官たちから敬恵王女の子供を処罰すべきだという上訴が起きた。
しかし、世祖の後を継いだ8代王・睿宗(イェジョン)は、処罰を絶対に許さなかった。それは世祖から託されていたことでもあった。
この睿宗は在位わずか1年で急死した。後継の9代王には12歳の成宗(ソンジョン)が就いた。年少だったので、貞熹王后が代理で政治を仕切った。
当時の法によれば、大逆罪に問われた者の息子は15歳のときに死刑に処されることになっていた。そして、敬恵王女の息子がまさに15歳になろうとしていた。
その機をとらえて、高官の間から再び「処刑すべし」という上訴があった。しかし、成宗は祖父である世祖の意思を根拠にして、それを許可しなかった。
貞熹王后も同じ意見だった。
「今後、同じような上訴をした者は厳罰に処する」
貞熹王后はそう言って、敬恵王女の子供に罪がないことを明確にした。
そればかりか、貞熹王后は鄭眉寿にりっぱな役職を与えて、その後見人となった。そのことを見届けてから、敬恵王女は38歳で亡くなった。
後に鄭眉寿は官僚として大いに出世を果たし、妹も良家に嫁いだ。敬恵王女の子供たちは、母親の願いどおりに幸せな人生を送ったのだ。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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