朝鮮王朝5代王・文宗(ムンジョン)の娘である敬恵(キョンへ)王女は、朝鮮王朝の歴史上“最も美しい王女”と言われた女性だ。王族の娘は、10代半ばになると嫁に行かなければならず、敬恵王女は、名門出身のエリート・鄭悰(チョンジョン)の妻になった。そんな彼女を襲った悲劇とは、何なのでしょうか?
幸せな生活が一変
本来、王族の女性は結婚したら王宮の外に出なければならない。しかし、娘を可愛がっていた父親の文宗が、王宮の側に立派な屋敷を建てて、敬恵王女と鄭悰はそこに住むことになった。
1452年、文宗が38歳で病死すると、敬恵王女の6歳年下の弟が6代王・端宗(タンジョン)として即位した。まだ11歳と幼い端宗は、姉を頼りにして、宮中で心細くなると敬恵王女の家を訪ねていた。端宗は、その姉の家を臨時の王宮に指定している。
幸せな生活を送る敬恵王女だが、その立場は次第に苦しくなっていく。文宗の弟の首陽大君(スヤンデグン)が、端宗から王位を奪おうとしていた。首陽大君は、端宗を守る高官たちを次々に殺害して王朝の実権を握り、端宗は形だけの王になってしまう。
端宗を擁護する忠臣の中には鄭悰もいた。首陽大君は、鄭悰が敬恵王女の夫であろうとも歯向かう者は容赦せず、都から追放してしまう。こうして、自身の邪魔になる人物を徹底的に処罰した首陽大君は、1455年に7代王・世祖(セジョ)として即位した。
1456年、世祖は、「端宗が生きていれば、また歯向かう者が出て来るのではない」と思い、端宗の身分を庶民に降格させた後で死罪にしている。
最愛の弟を失った敬恵王女はとても悲しんだが、このとき彼女のお腹には新しい命が宿っていた。それを知った世祖は、「男の子だったら殺せ」と命令を出した。彼は復讐されることを恐れていたのである。産まれてきたのは男の子だったが、世祖の正室である貞熹(チョンヒ)王后が「男の子が生まれたら私のところへ連れてきなさい」という命令を出していたため、敬恵王女の息子は貞熹王后に預けられた。
そんな辛い経験をした彼女を、さらなる悲劇が襲う。端宗擁護派で都を追われていた夫の鄭悰が、罪人として処刑されてしまった。朝鮮王朝には、罪人の妻は奴婢になるという決まりがあり、敬恵王女は奴婢にまで身分を落とされた。
敬恵王女は、恥をさらしてまで生きたくなかった。本来なら、夫のあとを追って自決したかったが、それができない事情があった。すでに敬恵王女のお腹の中では次の生命が宿っていたのである。
それだけに、敬恵王女はなんとしてもお腹の子供を守らなければならなかった。彼女は奴婢として使役を課されそうになったが、そんなときに敢然と言い放った。
「私は王の娘である」
たとえ最下層の身分になっても、精神の気高さは失っていないという意思表示だった。どこまでも自尊心を守り抜くことが敬恵王女の生き方だった。そして、やがて彼女は娘を産んだ。
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