「大長今」と称された
長今の名は、「朝鮮王朝実録」に断片的に登場する。その名が初めて登場するのは1515年3月21日である。
このとき、中宗の正室が王子(後の12代王・仁宗〔インジョン〕)を産むと、すぐに亡くなってしまった。その際、長今は、産後に王妃の衣装を替えないという失敗をおかした。王族の治療にあたる以上、些細なミスでも大きな責任を負わねばならない。しかし長今は、その後も医女として働き続けた。おそらく、王子の出産を祝って恩赦を受けたのかもしれない。
それ以降も、長今の名は1548年までに10カ所ほど登場する。
また、名前の前に「大」を付け、「大長今」と記されたこともあった。最大級の賛辞であり、中宗がどれだけ長今を信頼していたのかが伝わる。
しかし、「朝鮮王朝実録」には長今の肝心な人物像については何も記されていない。
時代劇の巨匠のイ・ビョンフン監督は、男尊女卑が色濃い朝鮮王朝で活躍した長今に強い魅力を感じた。
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