トンイこと淑嬪・崔氏(スクピン・チェシ)は1718年に亡くなり、粛宗(スクチョン)も1720年に世を去った。そして、張禧嬪が産んだ王子が20代王・景宗(キョンジョン)として即位した。
衝撃的な告発書
景宗には子供がいなかった。もし景宗が世を去れば、異母弟(淑嬪・崔氏の息子)が自動的に王位を継承する。
実際、景宗は即位して4年で世を去り、異母弟が後を継いで21代王・英祖(ヨンジョ)となった。
このとき、「英祖が兄を毒殺したのではないか」という噂が出て、国中が大騒動に巻き込まれる。
噂には根拠があった。
景宗が病床に臥せっているとき、主治医が「いけません」と反対したのに英祖は景宗にカニと柿と人参茶を差し出した。結局はそれらが病状を悪化させる原因になったと推定されている。
英祖は自分にとって都合の悪い噂を必死に打ち消すが、深刻な反乱が起きる。その反乱の告発書には「英祖は粛宗の子供ではない」「英祖が景宗を毒殺した」と書いてあった。まさに衝撃的な内容だったのである。
何をもって英祖が粛宗の息子ではないというのだろうか。
実は、2人はまったく似ていなかったという。
朝鮮王朝時代に「顔相」という顔の相を見る専門家がいたが、その専門家が見ても英祖は少しも粛宗に似ていなかったそうだ。
それが疑惑の根拠になった。
反乱は鎮圧されて、英祖はその噂を完璧に打ち消すのだが、その過程でかなりの人が処罰された。
仮に英祖が粛宗の子供でないとすれば、誰の子供なのだろうか。
たとえば、淑嬪・崔氏と愛人関係にあったという噂もある金春沢(キム・チュンテク)の子供ではないか……。
そういう推理も成り立つ。
もしそうであるならば、朝鮮王朝の王の系統が景宗までで途切れて、それからは金春沢の血筋になってしまう。
これは恐ろしいことである。
英祖は、自分の母親である淑嬪・崔氏の身分が低かったことに大変コンプレックスを感じていた。
(ページ2に続く)
英祖(ヨンジョ)とイ・ソン(思悼世子〔サドセジャ〕)の悲劇!
英祖(ヨンジョ)と思悼世子(サドセジャ)〔第1回/老論派の陰謀〕
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