王妃は悪妻だった
あまりにも趙光祖の理想が高すぎて、中宗にはついていけなかった。その末に、中宗は趙光祖を死罪にせざるを得なかった。
このあたりの成り行きを見ても、中宗が王としての役目をなかなか果たせなかったことがよくわかる。
さらに、中宗は三番目の正室として文定(ムンジョン)王后を迎えたが、彼女が中宗に代わって裏で権力を持つようになった。
しまいには、文定王后は自分が産んだ息子を王にするために、中宗の長男をしきりに排除する動きを見せた。
その際に、手先になったのが「朝鮮王朝三大悪女」の1人でもある鄭蘭貞(チョン・ナンジョン)である。
結局、中宗は毅然とした態度を取れず、文定王后の悪行を許してしまった。そんな不本意な日々の中で、彼は1544年に世を去った。
当然ながら、長男が仁宗(インジョン)として即位したのだが、わずか8カ月で命を落としている。
これは、文定王后が自分が産んだ息子を王にするために毒殺したのではないか、と言われている。
こうした結果を見ても、中宗が王朝をしっかりと統治できなかったことが、後に様々な禍(わざわい)になったと言わざるを得ない。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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