光海君(クァンヘグン)と仁穆(インモク)王后はなぜ激しく対立したのか

骨肉の争い

仁穆王后が産んだのが、王女の貞明(チョンミョン)公主と嫡子の永昌(ヨンチャン)大君である。
1606年に永昌大君が生まれてから、宣祖は世子を光海君から永昌大君に代えたいと思っていた。
もし宣祖がもっと長生きしていれば、次の国王は間違いなく永昌大君だった。
しかし、宣祖は1608年に56歳で世を去ってしまった。
この時点で、永昌大君はまだ2歳である。この年齢で王になるのは無理だ。
そのことは仁穆王后も認めざるをえなかった。
結局、仁穆王后の了解を得たうえで、15代王として光海君が即位した。




光海君と仁穆王后を比べると、年齢は光海君のほうが9歳上。しかし、形のうえで、仁穆王后は王である光海君の母なのだ。つまり、大妃(テビ)なのである。
仁穆王后としては、正室として宣祖の王子を産んだという自負がある。それだけに、息子に該当する光海君が大妃である自分を相応に厚遇すると思っていた。
だが、現実はまったく違った。
光海君を支持する派閥は少数派だった
それゆえ、彼は即位後も強いあせりを感じていたはずだ。結果的に、側近たちの陰謀を止められず、兄弟たちと骨肉の争いを起こした。
兄の臨海君は1609年に殺害され、永昌大君も1614年に命を奪われている。
(ページ3に続く)

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