朝鮮王朝の14代王・宣祖(ソンジョ)は1567年に15歳で即位した。1592年には豊臣軍による朝鮮出兵があり、朝鮮王朝は存亡の危機を迎えたが、戦乱は1598年に終結して宣祖は復興に力を入れた。
不安定な王座
朝鮮王朝が安定を取り戻すと、今度は宣祖の後継者問題が熾烈になった。
候補の筆頭は、宣祖の長男の臨海君(イメグン)だったが、彼は戦乱時に加藤清正軍の捕虜になり、その屈辱から精神的に乱れてしまった。
代わって評価を高めたのが二男の光海君(クァンヘグン)で、彼は豊臣軍に対抗して戦功をあげていた。はからずも、朝鮮出兵によって、2人の息子の評価が対照的になったのである。
1608年、宣祖が世を去ったあと、15代王になったのは光海君だった。
しかし、王位は安泰とはいえなかった。結局は光海君が王位に就いたあとも骨肉の争いが続き、その過程で臨海君と永昌大君(ヨンチャンデグン/光海君の異母弟)が殺されてしまった。
それでも、光海君は安心できなかった。彼は薄氷を踏むような気持ちで王座に座っていたのである。
そんな光海君をにらみ続けていたのが綾陽君(ヌンヤングン)だった。彼は光海君の甥にあたる人物である。
宣祖には25人の子供がいたが、そのうち息子は14人だった。長男は臨海君、二男は光海君だが、五男にあたるのが定遠君(チョンウォングン/1580~1619年)であった。
この定遠君も朝鮮出兵のときに功績をあげていた。彼には綾昌君(ヌンチャングン)という頭脳明晰な息子がいた。
「すばらしい青年だ。もし彼が王になったら、どんな善政をするだろうか」
そう評価されるほど綾昌君は評判が良かったのだが、光海君を支持する一派は綾昌君の存在そのものを極度に警戒するようになり、ついには謀反(むほん)の罪をかぶせて殺害してしまった。
「なぜ、罪もない息子を……。絶対に許せない」
綾昌君の父の定遠君は異母兄の光海君を恨みながら世を去った。
この悲劇で光海君を激しく憎んだのが、綾昌君の実兄の綾陽君であった。彼は父と弟を失い、光海君に対して復讐を誓った。
父の喪が明けたあと、綾陽君はすぐに行動を起こした。光海君に対して自分と同じように恨みを抱く人を集め、慎重にクーデターの準備を進めた。
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光海君(クァンヘグン)!暴君の汚名から名君へと評価が一変した国王
光海君(クァンヘグン)と仁穆(インモク)王后はなぜ激しく対立したのか
光海君(クァンヘグン)を廃位にした仁祖(インジョ)に正当性はあるのか
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