光宗(クァンジョン)は、高麗王朝を建国した王建(ワンゴン)の四男だった。彼は複雑な政治家一家の中で育った。異母兄の2代王・恵宗(ヘジョン)は、定宗(チョンジョン)によって王位を追われた。定宗は、光宗の実兄である。しかし、その定宗も即位4年で病床に伏した。その結果、光宗が4代王として即位した。
目的は「人材登用」
光宗は頭脳明晰だった。
高麗王朝の国王として成し遂げた成果も多い。
画期的だったのが、956年の「奴婢按検法」であった。
これは、どんな法律なのか。
奴婢の身分を調査して平民出身だった者の立場を回復する法律である。
しかし、奴婢按検法が出ると、建国に貢献した豪族たちが激怒した。当時、奴婢は戦時に捕虜になった平民が多く、彼らは有力豪族たちの私兵として働いていたからだ。それを解放してしまうと、豪族たちは兵を減らす結果になってしまう。それゆえに、豪族たちは抵抗したのだ。
それに構わず、光宗は958年に、人材登用を目的に「科挙」を採用した。
当時、科挙にも反対論が多かった。
その背景を見てみよう。
建国初期の高麗王朝は、官職に就くための条件として、能力ではなく家柄を重視する傾向が強かった。
すると、無能な者が出世してしまう。実際に、人材面で弊害が多かった。
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太祖(テジョ)と呼ばれた王建(ワン・ゴン)/高麗王朝人物列伝1