故地を奪回
391年、16歳のときに高句麗(コグリョ)の19代王となった。
広開土大王は軍事の天才だった。戦術眼に優れ、将としても器が大きかった。
彼はまず、百済(ペクチェ)の打倒を誓った。
当時、高句麗と百済は一進一退の攻防を繰り広げていたが、広開土大王にはどうしても百済を攻めなければならない理由があった。祖父にあたる16代王・故国原王(コググォンワン)は371年に百済との戦闘中に命を落としており、その仇を討たなければならなかった。
広開土大王は執拗に百済を攻め、完全に屈伏させた。
さらに、広開土大王は中国東北部に大軍を送って領土の拡張をはかった。
もともとは高句麗の領土であったのだが、異民族の侵入を受けて失った土地も多かった。そういう故地の奪回に広開土大王は執念を燃やした。
王であるにもかかわらず、宮殿で安楽に過ごす暇(いとま)もなく、広開土大王は毎日を馬上で過ごした。
相手の虚を突く戦略性に優れ、城を攻め落とす達人でもあった。
ただし、しゃにむに攻めるだけでなく、攻撃相手を孤立させるために周辺国と同盟を結ぶという外交戦術も多用した。
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