多胡郡の誕生を記念
碑文の原文は漢字のみだが、読みくだし文にすると以下のようになる。主文だけをここに記す。
「弁官符す。上野国片岡の郡、緑野の郡、甘良の郡、并せて三郡の内三百戸を郡と成し、羊に給いて多湖の郡と成せ」
わかりやすく言えば、次のような内容だ。
「政府の命令です。上野国の片岡郡、緑野郡、甘良郡という三郡から三百戸を(新たな)郡に編成し、羊に給いて多胡郡としなさい」
そして、和銅4年3月9日という日付が入っている。
つまり、この碑は、和銅4年(711年)に多胡郡が誕生したことを記念したものなのである。当時、上野国(現在の群馬県)にはすでに13の郡があったので、多胡郡は14番目の郡ということになる。
当時の律令体制において、地方の行政単位は大きい順に国、郡、里となっており、郡として独立することは、かなり大きな行政地域になったことを意味している。
実際には、どれほどの人数だったのだろうか。碑文の中に三百戸という具体的な数字が出てくるが、この場合の「戸」は現在の一世帯を表す「戸」ではなく、集落を意味する「郷戸」のことである。当時の「郷戸」の人数は20~30人と言われており、仮に20人として計算しても三百戸では6000人になる。まだ人口が少なかった奈良時代では大層な人数である。
その多胡郡の設置は、「続日本紀」の和銅4年3月6日の条に見られる。記述は次のようになっている。
「上野国の甘良郡織裳、韓級、矢田、大家、緑野郡武美、片岡郡山等の六郷を割いて、別に多胡郡を置いた」
「続日本紀」は、「日本書記」に続いて編纂された勅撰の正史で、文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)までの出来事が編年体で書かれてある。その「続日本紀」に正式に書かれているだけに、多胡郡の創設は大きな出来事だった。(ページ3に続く)
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