世界遺産となった上野三碑の中の多胡碑とは?

渡来人が多かった

果たして、多胡碑の文字は誰が書いたのか。
その書体は、中国大陸の北魏(386~534年)の時代に造られた有名な碑の文章に似ていて、その影響が認められる。
さらに、多胡碑の文字の一部が、高句麗でよく使われた書体であることを考えると、以下のような推理が成り立つ。つまり、北魏の影響を受けた高句麗出身の渡来人が書いたのではないか、と。
しかも、「多胡」という地名に注目したい。「胡」とは異国という意味であり、当時の日本では大陸をさす言葉だった。つまり、大陸から来た人たちが多いという意味が「多胡」には込められているのだ。




新たに多胡郡となった地域は、もともとは片岡郡、緑野郡、甘良郡という三つの郡があったところだ。それぞれの一部を合わせて多胡郡となったのだが、特に甘良郡という地名に注目したい。
この「甘楽」という漢字も、今は「かんら」と読むが、かつては「から」と読んでいた。この発音は「韓(から)」に通じるものがあり、甘楽郡は渡来人が多かった地域なのである。つまり、甘楽郡などの中で特に渡来人が多い地域を分割して新たに多胡郡を創設したということか。
この地は古くから織物や焼き物が盛んだったが、それも渡来人と大いに関係があると推定されている。
「続日本紀」によると、天平神護2年(766年)、上野国にいた新羅系一族の193人に「吉井連(よしいのむらじ)」の姓(かばね)が与えられたという。単に上野国と示されているだけだが、それは多胡郡のことをさしていることは明白である。
この時代、朝廷が地方の人間に姓を与えるのは大変名誉なことだった。その姓が地名として残り、今に至っている。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

康 熙奉(カン ヒボン)
1954年東京生まれ。在日韓国人二世。韓国の歴史・文化・社会や、日韓交流の歴史を描いた著作が多い。主な著書は『知れば知るほど面白い朝鮮王朝の歴史と人物』『朝鮮王朝の歴史はなぜこんなに面白いのか』『徳川幕府はなぜ朝鮮王朝と蜜月を築けたのか』『宿命の日韓二千年史』『韓流スターと兵役』など。

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