国政で指導力を発揮
純祖が孝明世子に代理聴政をさせたかったのには別の理由もあった。
孝明世子が代理聴政を命じられた1827年の頃には、純祖の正妻であった純元(スヌォン)王后の実家(安東〔アンドン〕・金氏の一族)が政権の中枢を占めていた。純祖はそんな状況を好ましく思っておらず、政権の要職を刷新する腹積もりで孝明世子に政治をまかせようとしたのだ。
そうした純祖の期待に応えられるほど孝明世子は統治能力を備えていた。
しかし、当の孝明世子はまだ18歳という年齢を理由に、代理聴政を受けることを辞退した。このあたりは控えめな性格であったとも言える。
それでも、純祖の王命によって孝明世子の代理聴政が決まった。それは、1827年の2月のことだった。
まかされた以上、孝明世子は国王の摂政として最善を尽くそうとした。実際、国政において指導力を発揮している。
彼が最初に行なったのは人事の刷新だった。孝明世子は安東・金氏の一族の専横を抑えるために、新しい人材をどんどん登用した。その際に重用されたのは、孝明世子の妻の実家である豊壌(プンヤン)・趙氏の一族だった。
実際、孝明世子の岳父にあたる趙萬永(チョ・マニョン)は孝明世子の後押しによって最大級の出世を果たした。
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