無策だったわけではない
貞純王后が1805年に世を去り、15歳になった純祖はようやく親政を開始したのだが、王として不甲斐ない立場にならざるをえなかった。正妻の純元(スヌォン)王后の実家である安東(アンドン)・金氏の一族によって、政治の主導権を取られてしまったからである。
純元王后の父は金祖淳(キム・ジョスン)。野心家の彼は国王の岳父としての立場を利用して、次々に一族の者たちを要職につけていった。
このように、国王の外戚が権力を持つことを「勢道(セド)政治」と呼ぶが、朝鮮王朝で一番この政治を行なったのが安東・金氏であった。
純祖は歯がゆくて仕方がなかった。しかし、彼は自ら主導権を奪うほどの強い意志を持っていなかった。
それでも、まったく無策だったわけではない。純祖は安東・金氏の横暴を抑えるために、10歳の長男であった孝明(ヒョミョン)世子の妻に豊壌(プンヤン)・趙(チョ)氏の娘を迎えた。
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