放置された遺体
朝鮮王朝中期の学者が書いた「陰崖日記」には、「端宗が自殺したと言うが、これは当時、狐や鼠のごとき輩たちの邪悪で媚びた文だ。『朝鮮王朝実録』の編纂者というのは皆、世祖にこびへつらう輩ではないか」という文章がある。
野史(民間に伝承された歴史書)によると、端宗の最期は堂々たるものだったという。世祖の命令で毒薬を持ってきた高官の王邦衍(ワン・バンヨン)はそれを渡すことができず、端宗の前でずっと身を伏せていた。
それを見た端宗は自分で首に紐を結び、その先を窓の外に出して引っ張れと命じたという。世祖が送った毒薬を拒否し、自殺を選んでせめてもの抵抗を示したのだ。
野史によると、端宗の遺体はそのまま放置されていたという。世祖が端宗を嫌っていただけに、うっかり手を出すと同じく反逆者にされる恐れがあって誰も端宗の遺体を納めることができなかった。
哀れに思った義士の厳興道(オム・フンド)が、端宗の遺体を丁重に埋葬した。まわりの者たちは端宗の遺体に触れるのは危険だと引き止めたが、彼は敢然と言った。
「正しいことをして害を受けるのは本望である」
こうした人がいたということに救われる。
実際、端宗の祭祀が礼に従って行なわれたのは、彼の死(1457年)から60年も経ってからのことだった。