険悪となった父子の関係
1645年、人質から解放されて漢陽(ハニャン/現在のソウル)に戻ってきた昭顕は、父親の仁祖と対面した。周りの者たちは、感動的な親子の対面が行なわれると思っていたが、仁祖は息子を冷たくあしらった。さらに、異国の文化のすばらしさを意気揚揚と話し、それを朝鮮王朝にも取り入れようと言う息子の姿に、仁祖は機嫌を悪くした。
その2カ月後に昭顕は世を去ってしまう。これにはいくつかの説があるが、一番有力なのは、仁祖による毒殺説だ。
仁祖は1649年に54歳で亡くなった。この仁祖は死後につけられた尊号で、この「祖」は功績を残した王に付けられる。しかし、清に降伏して屈辱的な謝罪をして、多くの庶民を捕虜にさせた彼には「祖」は相応しくない。その捕虜にされた庶民の人数は50万人に近いと言われている。
それほどまでに多くの人を苦しめた仁祖。彼のようなぶざまな姿をさらした王は、それまでにはいなかった。仁祖が民衆から見放されたのも当然のことだ。仁祖が、朝鮮王朝27人の王の中で、一番情けない王であるのは間違いない。
文=康 大地(コウ ダイチ)