第4回 人事政策で大きな功績を上げた国王
21代王・英祖(ヨンジョ)は、19代王・粛宗(スクチョン)と淑嬪(スクビン)・崔(チェ)氏との間に生まれた。彼は、朝鮮王朝27人の王の中で一番長生きした王として知られている。いったいどのような王だったのか。
王として即位した延礽君
19代王・粛宗は、1720年に59歳で世を去った。その後を継いで20代王として即位したのが、朝鮮王朝3大悪女の1人張禧嬪(チャン・ヒビン)の息子の景宗(キョンジョン)だ。景宗はとても穏やかな性格で人徳があり、名君となる資質を持っていた。しかし、身体が病弱という不安材料もあった。そこにつけこんできたのが老論派(ノロンパ)だ。
老論派は、西人派(ソインパ)という派閥が内部対立により分裂してできた派閥で、同じくその分裂によってできた少論派(ソロンパ)と敵対関係にあった。老論派が淑嬪・崔氏の子である延礽君(ヨニングン)を支持し、少論派は景宗を支持していた。結果的に景宗が即位したため、少論派の天下となり、老論派は追放されてしまう。しかし、景宗が王となってから4年2カ月で世を去ったことで、少論派は力を失った。
景宗には後継者となる息子がいなかったため、延礽君が後を継いで21代王・英祖として即位した。それにより、追放されていた老論派の勢力が復活した。
景宗が王だったときと立場が逆転した老論派と少論派。本来なら、少論派も追放処分を受けてもおかしくないが、英祖は「報復しても新たな怨讐が生まれるだけだ」と、少論派を追放せずに弾劾を最小限に抑え、各派閥から公平に人材を採用する「蕩平策(タンピョンチェク)」という人事政策を行なった。
これまでの朝鮮王朝では、なかなか取り入れることのできなかった政策だが、英祖がそれに果敢に取り組んだことにより、激しかった党争も一時的に収まった。その後も英祖は、国防の強化や減税など政治的な政策を行ない、大きな功績をあげた。(ページ2に続く)
英祖(ヨンジョ)と思悼世子(サドセジャ)〔第1回/老論派の陰謀〕