芸術家としての道は?
李元秀にとって申師任堂は自慢の妻だった。彼は日頃から彼女の助言にしっかりと耳を傾けた。
1551年、李元秀が仕事で地方へ行っている間に申師任堂は47歳で亡くなってしまう。彼女は死の間際にこう語った。
「私が死んでも再婚しないでください。私たちは7人の子をもうけましたから、これ以上増やすことはありません」
申師任堂は、子供たちが新しい母親のもとで苦労させられることを避けたかったのだ。結局、妻を愛し尊敬していた李元秀は、申師任堂の遺言を最後まで守り通した。
夫に尽くし、両親を敬い、子供を立派に育てた申師任堂。「良妻賢母の鑑」と呼ばれるのも当然なのだが、実はありあまるほど絵の才能がありながら、結局は絵画に集中できなかった。
儒教的な男尊女卑の風潮が強かった朝鮮王朝では、女性が芸術分野で奔放に活躍することは無理だった。結果的に申師任堂は良妻賢母になったが、芸術家の道をとことん究めることができなかった。そのことが惜しまれる。
文=康熙奉(カン・ヒボン)+「ロコレ」編集部
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