敵は新羅・唐の連合軍
高句麗は敵国であった百済と同盟を結び、国力を増大させていった。そのことをもっとも恐れたのが新羅だ。
2つの敵国に囲まれるように位置する新羅は、このままでは自国の滅亡が避けられないと思い、高句麗の背後にある大国の唐に助力を求めるようになった。
こうして「高句麗・百済」対「新羅・唐」という対立構造が出来上がった。唐の太宗は使者を送り、“新羅との和睦”を勧めたが、高句麗はそれを拒否した。その結果、戦争は避けられないものとなった。
644年、唐は3回にわたって高句麗に大軍を送ったが、そのすべてを淵蓋蘇文は撃退し、逃走する唐の軍勢を追撃して多大な被害を与えた。
勢いを得た高句麗は655年、百済と連携して新羅に攻め入り、多くの城を手中に収めた。
淵蓋蘇文の統治のもとで優勢となった高句麗。しかし、それは大国である唐を本気にさせてしまった。
660年、新羅・唐連合軍は「先百済、後高句麗」という攻撃方針を定め、最初に百済を猛然と攻めた。
百済も奮戦して敵を苦しめたが、最後には力尽きて滅びた。
同盟国の滅亡で孤立した高句麗。新羅・唐連合軍の激しい攻撃を受けたが、淵蓋蘇文の圧倒的な指導力の下で善戦を続けた。
(後編に続く)
文=康 熙奉(カン ヒボン)