王権を操った傑物
642年、淵蓋蘇文が工事のため都を離れている隙を狙って、彼の強大な権力を恐れた者たちは栄留王をたぶらかし、クーデターを画策していった。
しかし、そうした謀略は権力者として宮中での根回しを終えていた淵蓋蘇文の耳にすぐに届いた。
彼は熟考の末に、要人たちを1カ所に集めて宴会を開いた。その宴会が自分たちを亡き者にするためのものと知らない要人たちは、なんの疑いもなく酒席を楽しんだ。
淵蓋蘇文は、油断しきった要人たちの前に姿を現して、一気に反対派の要人たちを一掃した。
さらに、自分を失脚させるためのクーデターに手を貸した栄留王を決して許さず、王宮に馬を走らせた。
そして、淵蓋蘇文は有無を言わさぬまま王を殺害し、名実ともに高句麗の最高権力者になった。
しかし、淵蓋蘇文は自ら王位に就くことはせず栄留王の甥を玉座に座らせた。その甥こそが高句麗最後の王であった28代目の宝蔵王(ポジャンワン)である。
宝蔵王は、王でありながら目立った功績を残せず、淵蓋蘇文の名声の陰に埋もれていった。それというのも淵蓋蘇文が自ら大莫離支(テマンニジ)という役職を作り、実質的な王権を彼が握っていたからだ。(ページ3に続く)