米びつに閉じ込められて餓死した父(思悼世子〔サドセジャ〕)を心から追慕した正祖(チョンジョ)は、水原(スウォン)に父の立派な墓をつくって城郭都市を築き、そこに都を移すことさえ考えていました。このように、大変な親孝行だったのです。
イ・サンの息子
イ・サンこと正祖は人格者としても尊敬されましたが、ただ1つ惜しまれるのは、48歳で急死してめざしていた改革が頓挫してしまったことです。それは1800年のことでした。
48歳は歴代王の平均寿命にほぼ近く、決して早いわけではありません。しかし、正祖は壮大な計画のもとで改革を行なっていただけに、その完成を見なかったことは本当に残念でした。
正祖が亡くなって10歳の息子が23代王・純祖(スンジョ)として即位するのですが、この純祖の垂簾聴政(摂政のこと)を行なったのが貞純(チョンスン)王后です。正祖の祖父である21代王・英祖(ヨンジョ)の二番目の正室だった女性です。
歴史的に正祖は、この貞純王后を抜きにしては語れません。なぜなら、父の思悼世子を陥れるために黒幕的に動いていたのが貞純王后だったからです。
貞純王后は英祖が還暦を過ぎてから10代で嫁に来ており、息子にあたる思悼世子のほうが年上です。よほどギクシャクした関係だったのか、2人の折り合いは悪く、貞純王后が結果的に思悼世子を追いつめる役割を果たします。
正祖は自分が王に即位したとき、父の思悼世子を陥れた連中を根こそぎ処罰していますが、形の上で祖母になる貞純王后には手を出せませんでした。朝鮮王朝が儒教を基盤にしていた以上、それは仕方がないことです。
もちろん、正祖が絶頂の頃には貞純王后は表立った動きをしていませんが、正祖が突然亡くなる際にはかなり不審な動きをしています。正祖が危篤になったときには側近たちをみな下がらせ、1人だけで看取るということもありました。
そういうことから、正祖は貞純王后に毒殺されたのではないか、という疑惑が起こりました。この真相を解明することは今となってはできませんが、正祖が亡くなったことでもっとも利益を享受したのが貞純王后であることは確かです。正祖としては、一番看取られたくない人に看取られてしまったわけです。
文=康 熙奉(カン ヒボン)