1544年、朝鮮王朝の11代王・中宗(チュンジョン)は臣下たちの権力争いに苦しめられていた。そうした気苦労は中宗の体調を悪化させた。病に倒れた中宗は、長男に王位を譲った翌日に亡くなった(文定王后については、韓国時代劇の史実とフィクションの違いを解説した康熙奉〔カン・ヒボン〕著・実業之日本社発行の『いまの韓国時代劇を楽しむための朝鮮王朝の人物と歴史』で紹介しています)。
献身的な息子
中宗の長男が12代王の仁宗(インジョン)として即位した。29歳だった。
生まれつきからだが弱かった彼が王の座にあったのはわずか8カ月という短い期間だった。これは、朝鮮王朝27人の王の中でもっとも短い。
しかし、当時の人たちは仁宗を聖君と崇めた。それは、彼が儒教の教えをしっかり守り、家族を大事にしていたからだ。
仁宗は生まれて1週間ほどで母親の章敬(チャンギョン)王后を失った。その後、中宗の正室になったのが文定(ムンジョン)王后である。仁宗からすれば、継母に当たる。
中宗は、仁宗に対しては、優しさと厳しさを持って教育した。
そのことに感謝した仁宗は、中宗が病に伏せると、臣下たちを集めて「父上が食べる食事と薬は一度私に渡すように」と厳命した。毒見係を買って出たのである。
また、仁宗はどんなに寒くても毎日、冷たい水を浴びて中宗の回復を祈った。
「私がしていることは、無意味なことかもしれない。しかし、父のためにできることがあるなら、私はなんだってやってみたい」
しかし、仁宗の献身的な気持ちは実らなかった。(ページ2に続く)
王の毒殺に関わった文定(ムンジョン)王后/悪女たちの朝鮮王朝4
文定(ムンジョン)王后と鄭蘭貞(チョン・ナンジョン)が仕組んだ悪行